米沢観光コンベンション協会
米沢観光コンベンション協会
愛知県東海秋まつり2006に参加します!
11月11日(土)・12日(日)の2日間
愛知県東海市でおこなわれる「東海秋まつり2006 産業まつり」に米沢からも
参加いたします。
お近くの方はぜひご来場下さい!
米沢からの参加は
市川肉店 米沢牛串、芋煮、米沢牛コロッケなど
秋葉糀味噌醸造 もろみなす、くるみ味噌、生味噌詰め放題など
田舎や 揚げもち、玉こんにゃくなど
いの食品の玉こんにゃくなど
詳しい内容についてはこちらをご覧下さい。
東海秋まつりホームページ
※東海市と米沢市は姉妹都市提携を結んでおります。
東海市出身の儒者、細井平洲先生が上杉鷹山公と師弟関係にあったという歴史的な
つながりがきっかけで、市民間の交流が深まり、平成12年の細井平洲先生没後200年、翌年が鷹山公生誕250周年を迎えるという節目を機に、平成12年10月に姉妹都市を提携しました。
細井平洲先生の教えが鷹山公の人格形成に深くかかわっておりますので
米沢の恩人の恩人が細井平洲先生なんですね。
ですので、松岬神社には祭神として細井平洲先生が祀られております。
そして、有名な美談として残っております話が
※鷹山公と平洲先生(一字一涙について)です。とても温かいお話です。
長くなりますがぜひ知ってください。
鷹山公がご隠居後平洲先生に相見えざること13年に及んであけくれ、思慕の情に堪えられないでいられるのを察せられた治広公(10代)が、厚い孝心から平洲先生を招請されました。
寛政8年(1769年)9月6日。関根の普門院のあたりは、威儀を正した侍が列をなしていました。
細井平洲先生が江戸よりお着きになると鷹山公は自ら、城より5キロも離れている普門院まで出迎えに出て、ご到着を待っておりました。
平洲先生は、鷹山公にとっては、14歳の時から教えを受けた恩師であるばかりでなく、米沢藩の政治や教育上の師と仰ぎ、心のよりどころとして、片時も忘れられない先生でした。
19歳で初めて米沢城に入るときも「民の父母として知恵と仁愛と勇気が大切である。自分が良いことをしていれば、千万人が妨害しても、少しも恐れる必要はない。善政を行うには、何よりも勇気が必要だ。」と励ましてくださったのも平洲先生でした。その先生も69歳。
「おそらく、先生を再び米沢にお迎えすることはないであろう。先生に教えを受け、藩の政治を見ていただくのも、これが最後になるだろう。」 鷹山公はそう思うと、先生について学んだ33年間の思い出が、走馬灯のようにまぶたに浮かんできました。
やがて、板谷街道のかなたから、先生の乗られたかごが、お付きの者や出迎えの一行に守られて、近づいてきました。すると、500メートルも先のところでかごが止まりました。
鷹山公の出迎えを知った先生が、かごから降りて歩いてこられます。鷹山公は思わず足を運びました。実に13年ぶりの対面です。平洲先生の元気なお姿を見ると、鷹山公は感激のあまり、「先生ご安泰。」と言ったきり、言葉につまってしまいました。
二人の顔は、涙にぬれ、居並ぶお供の人達も、思わず頬をぬらしました。その後、二人は普門院の山門を通り、中の門まで、つま先上がりの坂道を歩いてきました。
鷹山公は、先生のななめ後ろから付き添い、先生の先には出ないようにして歩いていきました。
寺へ着いてからも、丁寧に案内し、心をこめてもてなしました。
本堂で一休みした一行は、城下へ入りました。道の両側には、身分の上下を問わず領民が歓迎に集まりました。
そして、滞在中に行われた、平洲先生の講義には、毎回数百人もの聴衆で満ち溢れました。
平洲先生は、すっかり復興した米沢の政治と教育をほめ称え、10月28日、盛大な見送りを受けて江戸に帰られました。その後、平洲先生は、生涯にもう二度と来ることのない、この米沢での52日間の滞在の様子を詳しく、感激に満ちた文面で書き記し、自分の高弟である久留米の樺島石梁に宛てた長い手紙で知らせています。
「・・・鷹山公の徳が民の心にしみ、尊ばれていることが良くわかりました。このような次第なので鷹山公を今日までお導きした老人の私としては、(うれしさのあまり)どうして泣かずにおられましょうか。・・・」
関根の普門院の境内には、この手紙の一節を石碑に刻んだ「一字一涙の碑」が建てられています。
「一字一涙とは」神保蘭室(鷹山公の学友、興譲館督学)が「一字一涙慨焉往日を憶はしむ」といった
ことによる。(鷹山公と平洲先生の再会に思いをいたし、書状の一字を読むごとに一粒の涙があふれ、
過ぎ去った日々が思われ胸がふさがれるのである。)
2006.11.09:
yonezawa
:[
メモ
/
▼米沢ニュース
]
東海市!
大変ご無沙汰しています。白布温泉のyukioです。もう忘れられたかも・・・爆
9月に「東海市・米沢市交流促進の会」という集いの懇親会・宿泊を我が家で実施して頂きました。東海市の皆様の熱い思い、平洲先生と鷹山公のつながりが平成の今につながっていること、あらためて再確認しました。
勉強しなくては・・!!
2006.11.09:yukio:
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/
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yukioさん、ありがとうございます!
明日から行ってまいります!
昔から市民レベルで交流をしてきたんですよね。
これからもよい交流をしていきたいものです。
東海市の皆さんもあったかいんですよね。
一字一涙、はじめてこの話を学んだときは目頭が熱くなり
胸にくるものがありました。
ぜひ皆さんに知っていただきたいと思い、載せました。
戦前の修身の教科書にも、この話が掲載されたほどなんだそうです。
2006.11.09:aoki:
修正
/
削除
何が写めだ!
この間のとある先生・生徒の不祥事、先輩としてはづかしい。
それはプライベートの問題もあるだろうが、先生という仕事は他の仕事とはまったく違う性質の部分があると思います。私がこう書くと問題もあるがあえて「先生は労働者ではない!」のです。
もっと高給にしてエリートにして(考え方や行動様式も含め)特権階級くらいに奉ってでも厳しい免許制度更新制度にして学校の権威を回復させないといけないのではと思います。爆)
2006.11.10:yukio:
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※東海市と米沢市は姉妹都市提携を結んでおります。
東海市出身の儒者、細井平洲先生が上杉鷹山公と師弟関係にあったという歴史的な
つながりがきっかけで、市民間の交流が深まり、平成12年の細井平洲先生没後200年、翌年が鷹山公生誕250周年を迎えるという節目を機に、平成12年10月に姉妹都市を提携しました。
細井平洲先生の教えが鷹山公の人格形成に深くかかわっておりますので
米沢の恩人の恩人が細井平洲先生なんですね。
ですので、松岬神社には祭神として細井平洲先生が祀られております。
そして、有名な美談として残っております話が
※鷹山公と平洲先生(一字一涙について)です。とても温かいお話です。
長くなりますがぜひ知ってください。
鷹山公がご隠居後平洲先生に相見えざること13年に及んであけくれ、思慕の情に堪えられないでいられるのを察せられた治広公(10代)が、厚い孝心から平洲先生を招請されました。
寛政8年(1769年)9月6日。関根の普門院のあたりは、威儀を正した侍が列をなしていました。
細井平洲先生が江戸よりお着きになると鷹山公は自ら、城より5キロも離れている普門院まで出迎えに出て、ご到着を待っておりました。
平洲先生は、鷹山公にとっては、14歳の時から教えを受けた恩師であるばかりでなく、米沢藩の政治や教育上の師と仰ぎ、心のよりどころとして、片時も忘れられない先生でした。
19歳で初めて米沢城に入るときも「民の父母として知恵と仁愛と勇気が大切である。自分が良いことをしていれば、千万人が妨害しても、少しも恐れる必要はない。善政を行うには、何よりも勇気が必要だ。」と励ましてくださったのも平洲先生でした。その先生も69歳。
「おそらく、先生を再び米沢にお迎えすることはないであろう。先生に教えを受け、藩の政治を見ていただくのも、これが最後になるだろう。」 鷹山公はそう思うと、先生について学んだ33年間の思い出が、走馬灯のようにまぶたに浮かんできました。
やがて、板谷街道のかなたから、先生の乗られたかごが、お付きの者や出迎えの一行に守られて、近づいてきました。すると、500メートルも先のところでかごが止まりました。
鷹山公の出迎えを知った先生が、かごから降りて歩いてこられます。鷹山公は思わず足を運びました。実に13年ぶりの対面です。平洲先生の元気なお姿を見ると、鷹山公は感激のあまり、「先生ご安泰。」と言ったきり、言葉につまってしまいました。
二人の顔は、涙にぬれ、居並ぶお供の人達も、思わず頬をぬらしました。その後、二人は普門院の山門を通り、中の門まで、つま先上がりの坂道を歩いてきました。
鷹山公は、先生のななめ後ろから付き添い、先生の先には出ないようにして歩いていきました。
寺へ着いてからも、丁寧に案内し、心をこめてもてなしました。
本堂で一休みした一行は、城下へ入りました。道の両側には、身分の上下を問わず領民が歓迎に集まりました。
そして、滞在中に行われた、平洲先生の講義には、毎回数百人もの聴衆で満ち溢れました。
平洲先生は、すっかり復興した米沢の政治と教育をほめ称え、10月28日、盛大な見送りを受けて江戸に帰られました。その後、平洲先生は、生涯にもう二度と来ることのない、この米沢での52日間の滞在の様子を詳しく、感激に満ちた文面で書き記し、自分の高弟である久留米の樺島石梁に宛てた長い手紙で知らせています。
「・・・鷹山公の徳が民の心にしみ、尊ばれていることが良くわかりました。このような次第なので鷹山公を今日までお導きした老人の私としては、(うれしさのあまり)どうして泣かずにおられましょうか。・・・」
関根の普門院の境内には、この手紙の一節を石碑に刻んだ「一字一涙の碑」が建てられています。
「一字一涙とは」神保蘭室(鷹山公の学友、興譲館督学)が「一字一涙慨焉往日を憶はしむ」といった
ことによる。(鷹山公と平洲先生の再会に思いをいたし、書状の一字を読むごとに一粒の涙があふれ、
過ぎ去った日々が思われ胸がふさがれるのである。)